泡盛は、「琉球泡盛」という地理的表示を認められた世界の名酒です。今回は、そんな泡盛の歴史と、酒器についてご紹介いたします。
泡盛の歴史
首里三箇、鳥堀・赤田・崎山
琉球時代、1492年から泡盛を作ることを許されたのは、鳥堀・赤田・崎山の首里三箇と呼ばれる3つの地域でした。この地域の中でも、正式に「焼酎職」として認められたのは約40家。しかも、醸造に失敗すると、醸造器具を没収されたり、島流しになったりととても厳しい環境下の中で泡盛作りは行われていました。
管理もとても厳しく、「焼酎職」以外の人間が泡盛を密造しそれが発覚すると、死罪になる場合もありました。このような厳重な状況の中で、泡盛作りの技術はどんどん上がっていきました。泡盛は、薬用酒としても使われており、人々にとって憧れの貴重なお酒でした。
よみがえった黒麹菌
泡盛の蔵に入ると、内部が黒くなっています。この黒さの正体は、泡盛を作るうえで欠かせない「黒麹菌」の胞子です。
黒麹菌は、沖縄固有の菌です。クエン酸を作ったり、雑菌の繁殖を抑えたりする、なくてはならない大切な菌です。
第二次世界大戦の激しい攻撃によって、50以上あった酒蔵は全て壊滅してしまいました。すなわち、黒麹菌も失われてしまったのです。しかし、軍政府は、辛うじて生き延びた酒造関係者に米軍の廃棄したチョコレートや砂糖、米から泡盛を作るようにと命令したのです。彼らは黒麹菌をイースト菌で代用したり、蒸留器を掘り起こしたりして泡盛作りに努めましたが、やはり黒麹菌なき泡盛作りは失敗に終わります。
しかし、蔵元が、偶然灰の中からニブロクという、麹を作る際に下に敷くゴザを発見しました。そのニブロクの繊維から、なんと奇跡的に黒麹菌が見つかりました。これが現在の泡盛の復活と隆盛につながった、というわけなのです。
酒器を通して泡盛の歴史に思いを馳せる
以上のような歴史や伝統を持った泡盛。そんな泡盛を飲むために、「酒器」というものがあります。
琉球における焼き物の歴史が始まったのは1430年頃といわれています。沖縄本島の北部で、釉薬(うわぐすり)をかけない、「荒焼き」と呼ばれるざらざらした肌質の焼き物が作られていました。そののち、朝鮮半島から陶工師を招いたりして、釉薬を塗った焼き物、絵付け、という風に焼き物は発展していきました。
それでは、泡盛を飲むための焼き物、「酒器」を2つご紹介したいと思います。
抱瓶(だちびん)
抱瓶は、携帯用の酒器です。形は三日月形と面取り型の2種。その脇についた挿し穴に縄を通し、肩にかけたり腰に巻いたりして抱瓶を持ち運んでいました。抱瓶には、荒焼きのものは確認されていないため、比較的新しい酒器であると推測されています。
地方の豪農たちによって「ダチビンスープ(抱瓶勝負)」が行われるほど、おしゃれのポイントとして使われていましたから、技法的にも手が込んでいるものが多いです。表面には魚や花、また模様といった美しい装飾が描かれています。明治頃まで一般的に使われていたようです。
琉球漆器
漆器の歴史は深く、琉球王朝が成立する役500年前に中国から技術が伝わったとされています。16世紀には、「沈金」(ちんぎん)という、漆器の表面に彫った線に金を流し込む方法や、沖縄でとれる夜光貝を薄く剝がして模様の形に切り、漆器の表面に貼っていく「螺鈿」(らでん)という技術が発達しました。
1609年、琉球は島津藩に支配されます。しかし、その混乱を乗り越えた後、「堆錦」(ついきん)という技法が発達します。これは、漆と顔料を混ぜ、たたいて餅状にしたものを文様に切って、漆の面に貼っていくというものです。明治以降は、これらの技術が民間に受け継がれ、現在では一般向けのものも製作されています。
おわりに
泡盛にも酒器にも、どちらもその発展の裏にはさまざまな困難を乗り越えたドラマがあります。ぜひ泡盛を飲む際、酒器をお使いの際は、その物語に思いをはせてみてください。
出典 本格焼酎&泡盛プレス2011年8月号No.88/2008年5月号No.69/2008年3月号No.74
日本酒造組合中央会
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