鹿児島県では明治末期に、焼酎製造を担う技術者集団として黒瀬杜氏・阿多杜氏が誕生。昭和35年頃には各々約370人・120人を数えていました。杜氏のふるさと南さつま市を訪ね、『杜氏の里笠沙(かささ)』の三代目杜氏で、今現在では数人となった黒瀬杜氏の黒瀬宏樹杜氏(5年前に引退)と、その教えを受けた四代目:寺内章造杜氏にお話を伺いました。
笠沙への道
笠沙の石積みの段々畑
焼酎づくり伝承展示館 杜氏の里笠沙
鹿児島県南さつま市笠沙町赤生木6762
TEL:0993-63-1002
開館:9:00~17:00 (展示館入館は16:30迄)
休館日:12月29日~1月3日
焼酎造りは9月から12月迄。見学可能(※要問合わせ)
笠沙に息づく、黒瀬杜氏の手造りの技を継承する焼酎づくり伝承工場と焼酎造りを解説紹介する展示館を併設。
多くの黒瀬杜氏の目が光る地域の中で、鍛え上げられた味わいが守り抜かれ、今もオリジナル銘柄が製造販売されている。
平成5年に創設された『杜氏の里笠沙』
焼酎壷を重ねた塀
焼酎展示館では最初に笠沙の方言で語りかける、黒瀬の老杜氏の人形が出迎える
焼酎造りに関する様々な資料が置かれた焼酎展示館内部
代々の黒瀬杜氏が書き残したメモ
伝統の蒸留機も展示されている
黒ぢょかをはじめ、様々な酒器も展示されている
「黒瀬杜氏の関わった九州の焼酎と九州の主な焼酎」の展示
造りの一般見学路
黒瀬氏、寺内氏インタビュー
黒瀬 広樹(くろせ ひろき)氏
鹿児島県黒瀬(現南さつま市笠沙町)1945年生まれ。学校卒業後19歳で焼酎造りの道に入る。阿久根市大石酒造で1988年杜氏に就任。1999年度から杜氏の里笠沙第三代目杜氏。
寺内 章造(てらうち しょうぞう)氏
鹿児島県片浦(現南さつま市笠沙町)1960年生まれ。1998年杜氏の里笠沙に入社。黒瀬宏樹杜氏の元で15年間焼酎造りを学び、2014年度製造から第四代目杜氏に就任。
【写真】黒瀬氏(右)と寺内氏(左)【樽式蒸留機の前で撮影】
てげてげじゃなく、心を込めることがいい仕事に繋がります 黒瀬宏樹杜氏
「こしゃ、よかか?」。先輩杜氏によく言われた言葉です。麹造りは焼酎造りの要です。“こうじ”と相撲取りの“こし”を掛けて、「腰(=麹)がしっかりしていないと相撲が取れない(=いい焼酎ができない)ぞ!」と檄を飛ばされたものです。
初めは蔵子として、鹿児島県内、福岡・宮崎・大分の7蔵へ、各々3、4年ほど通いました。子どもの頃から知る地元の先輩後輩同士で行くので、現場のチームワークは良好でしたよ。
杜氏になったのは、5社目の鹿児島の芋焼酎蔵でした。杜氏を任命された時は、緊張感でいっぱいでしたね。この先はもう、頼る先輩がいないのだと思ったら、嬉しさと一緒に何とも言えない恐ろしさがこみ上げてきた。「ぐわーっ!」という感じでしたね。家を守る奥さんにはまっ先に報せました。
冬場の半年間の焼酎造りが終わって家に帰り、家族の顔を見るとホッとした気持ちになったものです。夏は相撲大会で盛り上がりました。出稼ぎ先でお嫁さんを見つけてくる者もいて、集落が賑やかで活気がありましたね。私が子どもの頃は、杜氏さんが集まり、お互いの焼酎を飲み比べしている姿も見られました。
子どもの運動会や授業参観に行けないことも度々でしたが、やめようと思ったことは無かったです。稼ぎに出た以上、家族のためにも真剣に頑張ろうという気持ちでした。
何ごとも「てげてげ」(いい加減)じゃ、駄目になる。悪い時に気が付かなければいけません。手加減をせず、心を込めることがいい仕事に繋がります。その日の気候や醸造のデータをメモしていった記録が、迷った時の判断材料に役立ちました。いろいろな蔵人と一緒に仕事をしてきましたが、見ていてもそういう意欲や研究心のある者が杜氏になりますね。寒い時期に汗ばむくらい働いて、手塩にかけた焼酎を口にする時は格別でした。
手造りする麹、甕仕込み、樽式蒸留機での蒸留法が伝承の賜物です 寺内章造杜氏
『杜氏の里笠沙』では、実際に焼酎造りをしながら黒瀬杜氏の技術伝承を行っています。現在は、2名の若手が受け継ぐべく一緒に働いています。
手造りで麹を醸し甕で仕込み、木樽の蒸留機で蒸留する。この一貫した造りでなければ学べないことがあり、出せない味わいがあります。黒瀬では昔からの杜氏気質が残っていて、ここでも手取り足取り教えてはくれません。五感で経験を積みつつ、メモを残しながら20年余りやってきました。自分のノートが支えになります。お陰で、大きな失敗をしたことはありません。
製造過程で大事にしていることは、原酒の管理です。12月に蒸留を終えて、3月迄の寒冷期は毎日原酒に櫂入れし酸素を入れ、浮いてくる油脂分を丁寧に取り除きます。春以降は少し間を置いて手入れを行い、貯蔵タンクに移し替えて嫌な臭いの元になるガスを抜き、香り高い焼酎に仕上げていきます。
昔ながらの木樽の蒸留機は、洗浄、メンテナンスが必要です。蒸留直後の木樽はとても熱いので、ざっと水で流してあら熱を取ってから中に入り、醪が詰まらないよう配管の中まで丁寧に洗います。樽にできる隙間には薄く切った竹材を詰め、タガが緩んだら楔を打ち込むなど、補修が不可欠です。
先代杜氏から受け継いだ最も大切な教えは「場を清潔に保つ」こと。足元の消毒や手洗いに始まり、工場を清掃し整理整頓しておく。加えて不満を撒き散らし、揉め事を起こすなど、場の空気を汚してはいけません。常に心を穏やかに整えておくことの大切さも、先代から教わりました。
毎年変わる気候や原料、菌の働きをコントロールする焼酎造りは、毎年毎年が挑戦です。常に新鮮な発見があり、大変だけど楽しいです。蒸留機から初垂れが出てきて、ぷんと立つ香りを嗅いだ時、心からホッとしてまた頑張ろうと思えるんです。
きれいに清掃されている樽式蒸留機の内部
伝統的な石室と39の仕込み甕
時代が求め、腕を磨いた焼酎杜氏の軌跡
鹿児島での焼酎は、明治末まで味噌や醤油のように家庭で手造りし自家消費される酒でした。日清・日露戦争で財政難に落ち入った明治政府は、課税のため明治32年(1900年)に焼酎の自家醸造を禁止。鹿児島県では醸造免許人員はピーク時の明治34年には約3600人。その後、淘汰が進み、県内に3500以上もあった酒造所は昭和初期までに約300に激減。酒造所ごとの製造規模が大幅に拡大する中、製法においても技術が求められていきました。
南さつまの黒瀬・阿多地方では、明治30年頃から、農閑期の出稼ぎで焼酎製造を学んだ人々が杜氏集団を形成していきます。黒瀬杜氏の始まりは、片平一・黒瀬常一・黒瀬巳之助の3名。初代3名の元で2代目として12名が、3代目には34名の杜氏が輩出し、続いていきました。杜氏は技を外に漏らさぬよう、子や親類縁故の若者を蔵子として連れて行き、山がちで耕地の少ない黒瀬に醸造技術が伝承されていきました。
自家醸造から産業化への転換期を迎えていた本格焼酎の製造現場で、杜氏集団は九州全土はもとより中国・四国地方でも腕をふるい、現在にも続く黒麹仕込み・二次仕込みなどの製法を伝え焼酎造りの礎を築き、数世代に渡り継承し磨いてきた技は今も受け継がれているのです。
【写真】黒瀬杜氏の主な派遣先【焼酎展示館のパネル】
日本酒造組合中央会
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